「桐の会(ポロウニア・クラブ)」会報 街の散策:66 芭蕉庵史跡展望庭園と芭蕉稲荷神社散策
■ 「桐の会(ポロウニア・クラブ) 会報 街の散策
[ 街の散策からの気付き発見 ]会報 November 1, 2026
「 66 芭蕉庵史跡展望庭園と芭蕉稲荷神社散策 」
芭蕉記念館の見学を終え、庭の築山へ登る。外は隅田川の堤防だ。上流に新大橋が見える。下流は清洲橋だ。下流の堤防沿いの200m先に、芭蕉庵史跡展望庭園があるはずだ。裏木戸から堤防に出る。清洲橋方向へ歩く、200mぐらい行くと、堤防道がとぎれていた。下って、区道を渡り、展望庭園の階段を登る。芭蕉像があった。庭園は12,3坪ぐらいの広さだ。思っていたより狭い感じがした。像の向こう側は、小名木川が隅田川に流れ込んでいる。小名木川は、旧中川と隅田川を結ぶ全長約5kmの運河だ。現江東区を横断するこの川は、江戸時代に行徳の塩を運ぶ為に開削されたのが始まりで、その後、塩以外の品物も運ぶようになり、寛永6年(1629)には江戸物流の重要河川となっていた。小名木川が隅田川に合流する萬年橋北側付近には、「川船番所」が置かれ、小名木川を航行する船荷を取り締まったという。「川船番所」は、その後、寛文元年 (1661)に隅田川口から中川川口(現大島9丁目)に移転した。芭蕉が深川に転居した延宝八年(1680)の頃は、「川船番所」は、既に移転していたので、静かであっただろう、と思う。芭蕉庵史跡展望庭園のあたりに深川芭蕉庵があった、という説もある。
芭蕉稲荷神社へ向う。この場所から「蛙の像」が出てきたことから芭蕉庵があった、とされているところだ。住宅の一角にとり残されたような神社だ。「芭蕉庵跡」の碑と由来説明碑がある。
「俳聖芭蕉は杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年(1680)から元禄七年(1694)大阪で病没するまでここを本拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。(中略)幕末、明治にかけて滅失してしまった。たまたま大正六年(1917)津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年(1921)東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。(後略)」
「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」、この有名な序章で始まる「奥の細道」の作品は、芭蕉没から8年後、元禄15年(1702)に門人の向井去来が所持していた清書本を元に京都の井筒屋で刊行され、世に出た。文字数12000~13000、現在の800字詰め原稿用紙換算で15枚ほどになる冊子は人気を博した、という。深川の街は芭蕉の遺産を大切に残している。
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