「桐の会(ポロウニア・クラブ)」会報 街の散策:62 神田川中流域散策2 関口芭蕉庵
公開日:2026年09月01日 最終更新日:2026年09月01日
■ 「桐の会(ポロウニア・クラブ) 会報 街の散策


[ 街の散策からの気付き発見 ]会報 September 1, 2026
「 62 神田川中流域散策2 関口芭蕉庵 」
神田川中流域の遡上を続ける。江戸川公園から関口芭蕉庵に向かう。1kmほどの江戸川公園遊歩道を出ると神田川沿いに散策路は更に続いている。椿山荘の塀を過ぎ、関口芭蕉庵の塀と正門がある。江戸川公園から約180mの川沿い散策路は文京区が管理している、とのことだ。神田川に架かる駒塚橋の傍に関口芭蕉庵はある。橋から神田川下流をみると芭蕉庵白壁と目白台地に建つ「ホテル椿山荘東京」が見える。椿山荘も、古い歴史がある。この椿山荘の隣に関口芭蕉庵はある。説明碑によると、
「この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉が、延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川改修工事に参画し、「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。享保11年(1726)、芭蕉の33回忌にあたり、芭蕉の木造を祀る芭蕉堂が建てられた。その後、去來・其角・嵐雪・丈草の像も安置された。芭蕉は、早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したと言われている。そこで、寛永3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の真筆「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓とした。この塚を「さみだれ塚」と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。芭蕉庵の建物は、昭和12年(1937)3月、近火で類焼したが、同年8月再建された。しかし、昭和20年(1945)5月の戦災で焼失した。敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽管江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり、往時をしのぶことができる。 文京区教育委員会 平成10年(1998)3月 」、とある。
俳聖 松尾芭蕉(1644~1694)が関口大洗堰等の神田川改修工事にかかわっていたのは意外な感じがする。『松尾芭蕉略年譜』で調べると、
、「延宝5年(1677)34歳、日本橋に住み神田上水の水役に任じたらしい。このころ俳句の宗匠として立机する。延宝7年(1679)36歳、すでに剃髪していたことが知られる。延宝8年(1680)37歳、杉風・卜尺・嵐雪・其角らの優秀な門人をもち、江戸俳壇に一流を確立。居を深川に移す。(後略)」、とある。
芭蕉は、改修工事後延宝8年(1680)に深川に移転し、「奥の細道」の旅にでる元禄2年(1689)までの約9年間、深川の芭蕉庵に住んだ。俳聖芭蕉は、今日も人気がある人だ。現在、深川には芭蕉の資料や業績を展示した江東区芭蕉記念館がある。文京区関口芭蕉庵は、幾度も延焼後、再建され、往時を偲ばせるたたずまいを残している。
*↓PDF詳細は、こちらから見てください