春日部市市民活動センター ぽぽら春日部キリノカイ活動紹介社会教育・生涯学習・生きがい 「桐の会(ポロウニア・クラブ)」会報 街の散策:50 公園橋の河津桜

 「桐の会(ポロウニア・クラブ)」会報 街の散策:50 公園橋の河津桜

公開日:2026年03月01日 最終更新日:2026年03月01日

   ■ 「桐の会(ポロウニア・クラブ) 会報 街の散策  

    50(1)IMG_3067 公園橋春陽像と河津桜   50(2)IMG_3069 公園橋と河津桜2

    [ 街の散策からの気付き発見 ]会報  March 1, 2026

      50 公園橋の河津桜  

 寒さが和らぎ、大落古利根川遊歩道の昼の散歩ができるようになった。2月中旬、公園橋の2つの河津桜がピンク色の花を咲かせていた。『不思議なものだ』、と思う。季節がくると、植物は花を咲かせる。昨年も楽しませてもらったが、樹は一年の年輪を刻み、花の色形は同じでも一年前とは違う新しい花だ。『一年がたったのだなぁ』、と花を愛でながら思う。河津桜は伊豆の河津町が有名だ。ネットで河津町観光協会をみると、現在、満開まで70%の状況という。河津桜の由来も掲載されている。

「(前略)河津町田中の飯田勝美氏(故人)が1955年(昭和30年)頃、偶然発見した苗を植え、1966年(昭和41年)から開花が見られ、1月下旬頃から約1ヶ月にわたって咲き続けました。(中略)県有用植物園(現農業試験場南伊豆分場)は、賀茂農業改良普及所、下田林業事務所(現伊豆農林事務所)や、河津町等と、この特長ある早咲きのサクラについて調査をし、このサクラは河津町に原木があることから、1974年(昭和49年)にカワズザクラ(河津桜)と命名され、1975年(昭和50年)に河津町の木に指定されました。(後略)」、とある。

 この桜は昭和の時代に命名されたものだ。オオシマザクラとヒガンザクラの自然交配種と推定されている。桜の花を見ると、西行上人(11181190)の歌を思い出す。

「願わくば花の下にて春しなん そのきさらぎのもちづきのころ(三家集)、(願うことは、桜の花が咲いているもとで春に死にたいものだ。それも、釈迦が入滅したとされている如月(2月)のもちづき(2月15日の満月)の頃に)」、 

月と桜を愛した西行が晩年に詠んだ歌だ。西行の頃の桜は山桜になる。陰暦の如月は現在の太陽暦では2月下旬から4月上旬頃、山桜は咲いていたのであろう。西行は享年73歳、建久5年(1190)旧暦2月15に弘川寺(大阪府河南町)で亡くなった。歌のとおりに、桜と満月の頃に亡くなった、と語り継がれている。

西行は、望むとおりに死を迎えた人だ。西行の晩年の心境と歌を調べようと、家に戻り、現代語訳 日本の古典9 『西行・山家集』  井上 靖 を紐解いた。

西行は文治2年(1186)69歳のとき、平重衡の南都焼き討ちによって治承4年(1180)に焼失した東大寺再建のために、奥州の覇者、藤原秀衡へ砂金の勧進を依頼するために、奥州への旅に向かった。

年たけてまた越ゆべしと思ひきや いのちなりけり小夜の中山 (年老いて、この小夜の中山を再び越えられるとは思ってもみなかった。命があればこそなのだなぁ )、

西行は奥州への数ヶ月の旅から無事帰国、勧進を頼んだ秀衡は、翌年文治3年(1187)に没し、奥州藤原氏は、源頼朝により、文治5年(1189)に滅亡した。西行が平泉を訪ねた後、わずか3年で奥州藤原氏は滅亡した。この年、死の1年前、弘川寺に草庵を結ぶ。

「津の国の難波の春は夢なれや 芦の枯葉に風わたるなり / 老いゆけば末なき身こそかなしけれ 片山ばたの松の風折れ / はかなくぞ明日の命をたのみける 昨日をすぎし心ならひに / 笠はありそのみはいかになりぬらむ あはれなりける人の行くすえ」、

西行晩年の悟りの心境の歌を期待していたが、最晩年の4首は、人の世のあわれ、生の終わりは淋しい、と詠っていた。桜から西行の故事と和歌に想いをよせ、ふと、西行の死は自然死なのだろうか、尊厳死だったのだろうか、と思った。

  *↓PDF詳細は、こちらから見てください

  50 公園橋の河津桜 (248.8KB)

この記事を見た人はこんな記事もチェックしています

Menu