「桐の会(ポロウニア・クラブ)」会報 街の散策:49 観梅・越谷市花田苑
公開日:2026年03月01日 最終更新日:2026年03月01日
■ 「桐の会(ポロウニア・クラブ) 会報 街の散策


[ 街の散策からの気付き発見 ]会報 March 1, 2026
49 観梅・越谷市花田苑
立春後、越谷市・花田苑へ梅を観賞に訪れた。苑の梅はまだ、2分・3分咲きといったところだ。2日前の大雪が嘘のように、小春日和の中での散策を楽しんだ。木陰には、まだ、残雪が残っていて、これはこれで風情があった。陽だまりで梅を観賞しながら、飛梅伝説を思い出した。
「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ
(春の東風が吹けば、梅の花よ、また美しい花を咲かせてくれ、主人がいなくても春に梅に花を咲かすのを忘れないでおくれ)」
菅原道真(845~903)は、昌泰4年(901)、時の右大臣であったが、藤原氏の陰謀により、大宰府(現・福岡県太宰府)へ左遷されることになった。都を離れるにあたり、長年親しんできた紅梅殿の梅を詠ったという。梅は主人の道真を慕って、道真が太宰府につくと、一夜のうちに道真の元へ飛んで来たという、飛梅伝説である。道真は漢詩も優れた人だった。『梅花』の詩がある。
「 宣風坊北新栽処(せんぷうぼうのきた あらたにうえしところ)
仁寿殿西内宴時(じじゅうでんのにし ないえんのとき)
人是同人梅異樹(ひとはこれおなじひと うめはことなるき)
知花独笑我多悲(しんぬ はなのみひとりえみて われはかなしみのおおきことを)
(宣風坊の北側に新しく植えた梅。仁寿殿の西側で宮中の内々の宴があったときの梅。見るのは同じ私だけれど、ここ大宰府の梅はそれらと異なる樹。梅の花はひとり笑って咲き誇るけれど、私の悲しみは増すばかりだ。)」
この漢詩は、太宰府に左遷された翌年、延喜2年(902)の作品といわれる。道真は、その翌年(903)、無実の罪で都を追われた悲嘆のなかで没した。道真の没後、都では次々と不幸な出来事が起こった。道真の左遷に関わった藤原管根が雷に打たれて死亡、藤原時平が39歳の若さで急死、清涼殿には落雷が落ちた。また、長雨・洪水・干ばつ・疫病が流行した。人々は、これを「道真公の祟りだ」と恐れた。道真の怒りを鎮めるために、道真公が亡くなった大宰府にお墓をつくり、祀った。雷を落としたことから「雷神」、「天神」として、祀ったのが太宰府天満宮(福岡県)、無実の罪で左遷されたまま都に戻れなかった道真公を鎮魂するために都で祀ったのが北野天満宮(京都)となった。やがて、人々の記憶から道真公の祟りや怨霊のイメージが薄れ、一方で、都で高名な学者だったことから「学問の神」という信仰に変わっていった。菅原道真公は、死後に、「祟り神」・「天神」・「学問の神」となった人だった。現在は、受験生の合格祈願の「学問の神」として頼られている。梅の観賞が「神様」の話になったので、少し、庶民的な梅の逸話にしたい思い、探してみた。紀貫之(874~945)の歌が『古今集』春・42にあった。「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香(か)ににほへる」、この歌の詞書に「初瀬に詣づるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、程へて後にいたれば、かの家の主人、『かく定かになむ宿り在る』と言い出して侍りければ、そこに立てける梅の花を折りて詠める。」、とある。歌意は、「昔は初瀬の長谷寺へお参りにいくたびに泊まっていた宿にしばらく行かなくなっていて、何年も後に訪れてみたら、宿の主人が『このように確かに、お宿は昔のままでございます』(あなたは心変わりされて、ずいぶんおいでにならなかったですね)、といった。そこで、その辺りの梅の枝をひとさし折ってこの歌を詠んだ。『人の心は、どう変わってしまうものか、わかりませんが、昔馴染の場所で、梅の花は昔と同じ香りをさせて、咲いています。この里は昔ながらの梅の香りを漂わせていますよ。』(あなたの方はどうですか)」、貫之の洒落た歌での返しだ。梅を愛で、故事を思い、『春よ来い、♪早くこい♪(^^)』、と思う。
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